岩 槻 の 伝 説
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岩槻城物語(前編)
岩槻城物語(後編)

 岩槻城物語(後編)
 
 天正十八年(1590)五月二十日、わが岩槻城は、豊臣秀吉の小田原攻めのあおりをうけてついに落城、太田道灌築城以来六代百三十年余り続いた太田氏の時代は終わりました。
 そして、小田原城落城後は、秀吉の命令で徳川家康が関東一帯を治めることとなり、八月家康は江戸城に入りました。そうしたなかで、わが岩槻城主には、家康の家来高力清長が二万石で任ぜられたのです。
 高力清長は、源平の合戦で名を上げた熊谷次郎直実の子孫といわれ、若いころから家康に仕えて数々の手柄を立てました。特に、永禄六年(1563)、家康の領地三河国(愛知県東部)で、一向宗の信徒が暴動をおこして大きな氾濫となった三河の一向一揆の時です。清長は家康のもとで一揆の鎮圧にあたり、本宗寺という寺の仏像や経典を安全な場所にうつして、反乱がおさまってから寺にもどしたので、人びとは清長を「仏高力」と呼んだということです。
 清長は、天正十八年(1590)八月九日、初代城主として岩槻に入城しました。六十歳でした。その二年後、清長は朝鮮の役に使う軍船をつくりました。その経費の余り分黄金二十枚を返そうとしましたが、家康は清長の正直で潔いことをほめて、この黄金をうけとらず清長に与えたということです。
 以来、岩槻城は、九つの大名家の二十五代の城主により二八〇年続きました。
 さて、清長は岩槻の復興をはかるため、まず、戦争で散り散りになった人びとが元の家に戻り生活ができるように努めました。また、市宿の肝煎(総代)衆に市場の掟書(勝田家文書)を示し、商売をさせましたので、市はたいへん賑わい県東部の中心として栄えました。
 岩槻の町づくりに努力した清長は、慶弔一三年(1608)、七十九歳で亡くなり、その墓は市内浄安寺にあります。ついで、二代目城主となった清長の孫忠房は、後に浜松城へ国替となりました。そして、高力氏のあとの城主青山忠俊は、三年後、将軍家光におおとがめをこうむり下総国網戸(千葉県旭市)にとじこめられてしまいました。
 青山氏の後、元和九年(1623)、阿部正次が五万五千石で岩槻城主となりました。正次は家康に仕え、特に大阪夏の陣では抜群の手柄を立てました。三年後、正次は大阪城代に任ぜられました。そして、寛永十四年(1637)、島原の乱の時、正次は将軍の命令を待たずに、九州の大名に出兵の命令を伝えましたが、将軍家光からは「火急のこととて、正次の処置は適切であった。」とおほめにあずかったとのことです。正次のあと、その子政澄が城主を継ぎましたが二年後亡くなり、その弟重次が三代目城主となりました。
 重次は、度々将軍家光の日光参拝のお供をするなど、家光から深く信頼されておりました。慶安四年(1651)四月二十日、家光が亡くなった時、重次はその後を追って死んだのです。このとき、重次は家来の新井頼母に介錯を命じて切腹しました。その直後、頼母以下五人の家来も重次の後を追い切腹して果てました。
 なお、重次が奉納した螺鈿鞍は県指定文化財として久伊豆神社に残されております。重次の殉死後、その子定高が継ぎましたが、二十五歳の若さで亡くなりました。
 定高の死後、その子正邦が幼少のため、定高の弟正春が城主を継ぎました。
 それから十二年後、正春は甥正邦を呼んで、今後阿部家並びに岩槻藩の一切を譲ることを申し渡しました。「ハイ、叔父上。ありがとうございます。」時に正邦は若冠十四歳、それから十一年後、正邦は丹後(京都府北部)の宮津へ国替えとなり、六十年近い阿部氏の岩槻支配は終わりました。なお、正春はあの「時の鐘」をつくらせた殿様でもあります。
 阿部氏のあと、板倉、戸田、松平、小笠原の四氏合わせて二十九年と続いたあと、永井氏の時代を迎えます。
 永井氏は、初代直敬、二代目尚平と早く亡くなったため、尚平の弟直陳が継いで、正徳四年(1714)から四十六年間、歴代城主中最も長く続いた殿様です。
 永井直陳は、享保十三年(1728)、将軍吉宗が日光参拝の時、岩槻城で厚くもてなし、吉宗から沢山のご褒美をいただきました。また、直陳は村々の区画を改めたり、用水掘りの改修工事を行うなど、農業や人びとの生活の向上に尽くした殿様です。さらに、阿部正春が造った「時の鐘」がいたんだので、その鋳直しも行いました。その後、永井直陳が美濃国(岐阜市)加納城へ国替えとなったあと宝暦六年(1756)五月、幕府の側用人大岡忠光が二万石で岩槻城主となりました。
 大岡忠光は、名奉行大岡越前守忠相の一族で、旗本の出身ながら次第に才能を認められてまれに見る速さで出世した人物です。
 ある時、将軍家重が庭に出て、お側の者に用事を命じましたが、家重は幼い時から病気がちで言葉もはっきりしないため、誰にもわかりません。そこで、一人の者があわてて忠光を呼びにまいりました。忠光は将軍の様子を聞いて、「お寒いのであろう。羽織を差し上げたらよろしかろう。」と答えました。将軍に羽織を差し上げると、そのとおりであったということです。
 忠光は、十五歳でお世継ぎ家重の小姓となり、九代将軍になってからもお側近くに仕えましたので、忠光だけは家重の言おうとすることがわかったのでしょう。そのため深く信用され、片時も家重の側をはなれませんでした。将軍が命令を下す時は忠光が行いましたので、家重からますます信頼されるとともに、幕府の中でも大きな力を持つようになりましたが、忠光はすべてに控えめで高ぶることは一切なかったといいます。忠光は幕府の大事な仕事にいそがしく、岩槻に来たのは藩主になって翌年の四月のことでした。しかもわずか十日間でした。この短期間に場内では家来に会い、領内を視察し、また神社や寺の参拝など急いで行いました。
 そそて、領内の七十歳以上のお年寄りを書きあげさせてお金を賜り、孝行の教えとしました。また、産業を盛んにするため、木綿や砂糖を栽培することや城内の空地に栗や梅を植えることをすすめました。忠光は、藩主としてはわずか五年でしたが、岩槻藩のしくみや方向をしかっりと定めた名君といえましょう。以後大岡氏は、明治維新まで八代百十三年間、岩槻藩主として、歴代藩主中藩内の人びとに最も親しみ深い藩主となったのです。
 大岡氏二代忠喜の晩年の安永九年(1780)五月二日には元順号遭難事件が起こりました。清国(中国)の貿易船元順号が台風に遭難して、当時岩槻藩の領地であった今の千葉県千倉町の沖合いに流れついたのです。そこで、現地の奉行児玉南柯の指揮のもと、千倉の人びとの勇敢な行動によって、乗組員七十九人全員を救い出し、約二ヵ月後無事本国へ向け出港させることができたのです。
 つづく三代忠要、四代忠烈の時代は、浅間山の大噴火、天明の大飢饉などの大きな災害が続きました。特に天明(1784)、利根川の堤防がくずれて大洪水となり、岩槻藩は非常に大きな被害を受けて人びとは大変苦しみました。忠要は倹約令を出して財政の建て直しをはかりましたが、ますます苦しくなるばかりでした。
 続く五代忠正の時代になると、児玉南柯によって遷喬館が開かれ、また武芸稽古所もできて学問や武芸を盛んにしようと努めました。
 さらに六代忠固の時代になると、各地に外国船が近づいて来ました。そこで幕府は、各藩に命じて江戸湾をはじめ各要所の守りをかためさせたのです。
 岩槻藩でも幕府の命令で大砲や鉄砲を造るとともに、岩槻藩の受け持ちである房総海岸の要所要所には、警備の侍や武器を多く送って外国船に備えました。
 さらに、七代中友紀恕が藩主になった翌年嘉永六年(1853)には、ペリーが浦賀にやって来ました。幕府や藩の動きは一段とあわただしさを増してきたのです。
 やがて、鎖国から開国へ・・・。
 江戸幕府にかわる新しい政府へ・・・。藩や武士の特権の廃止など・・・。わずか二十年ほどの間に歴史の流れは大きく変わります。
 ところで、わが岩槻藩最後の殿様・八代忠貫が位についたのは慶応二年(1866)のことで、将軍慶喜が大政を奉還する前の年でした。
 ついで明治二年(1869)三月、版籍奉還により、百十三年に及ぶ岩槻藩大岡氏時代はその幕を閉じることになったのです。
 さて、毎年四月みどりの日に、市内龍門寺の大岡氏の墓所にお参りする一団があります。旧岩槻藩親睦会の皆さんです。親睦会は、元の大岡藩縁の方々の会で、この日は市内外から多くの会員が集まり、大岡忠光並びに大岡家の墓前に額ずきます。
 明治以来百三十数年、こうした親睦会の存在は、会員相互の絆を強めることはもとより、城下町岩槻の歴史と伝統をうけ継ぐ拠り所としても、その意義は大きいと思います。

内田 茂「岩槻むかしばなし」より

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