岩 槻 の 伝 説
HOME
槍がえしの門
慈恩寺の七不思議
岩槻城築城の伝説
岩槻城物語(前編)
岩槻城物語(後編)

 岩槻城物語(前編)
 
 岩槻のお城は、長禄元年(1457)太田道灌によって築かれたといわれております。 それでは、どうしてそのころ、この岩槻の地にお城が築かれるようになったのでしょうか。
 そのころは、室町時代の中ごろでかの銀閣寺をつくった八代将軍足利義政の時代でした。さて、室町幕府では、幕府を開いた足利尊氏の時代から特に関東一帯を治めることに力を入れておりました。そこで、鎌倉に関東公方(将軍)をおいて、自分の子や孫にその役をあたらせ、上杉家などの有力な家来がついて政治を行わせました。 ところが、関東公方の五代目となった足利成氏は幕府や上杉家と争うようになり、戦となりましたが敗れて、成氏は鎌倉を追われ、下総の古河城(茨城県古河)にのがれました。それから、成氏とその子孫は、古河公方と呼ばれるようになり、関東の東西に分かれて対立は一そうはげしくなりました。
 そこで上杉家では、古河公方との戦いに供えるために、家老の太田道灌に命じて、江戸城と岩付城を築かせることとなったのです。
 太田道灌は、天下の名将です。古河や菖蒲、関宿などの城に対抗できる堅固な城を築く場所をさがしました。
 そして、江戸から四十キロ足らず、奥羽へ向かうにも便利な渋江郷(今の岩槻)の丘に立ちました。そこは、丘のすそは広い沼となり、東北に元荒川、西に綾瀬川が流れ、その流域には豊かな田畑が広がっておりました。
 「フーム、ここじゃ。」と、道灌は強くうなずいたのです。
 ある日のこと、道灌はしばらく丘の草わらにすわり、城づくりの計画を考えていましたが、目の前に広がる沼の水をどうしたらよいものかと困っておりました。
 すると、たまたま一羽の鶴が飛んできて、くわえていた枝を水の上におとして、それにとまって休みました。 これを見た道灌は、膝をたたいて「そうだ!」と、よい考えがひらめいたのです。
 鶴からヒントを得た道灌は、早速工事にとりかかりました。大ぜいの人足を使って竹をたばね、これを沼に埋め、その上に土を盛って地ならししました。そして、この上に城を作ったのです。それで、城の名前も白鶴城、竹たばの城、あるいは浮城などと呼ばれるようになりました。
 道灌は、この城には甥の資家を初代城主にして、自分は江戸城にうつりました。
 それから百三十年余り、岩付城は太田氏六代の城主によって治められたのです。その後、道灌は江戸にいてますます有名になりましたが、道灌の主人植えすぎ定正は、うその悪口にだまされて道灌をにくみ、文明十八年(1486)道灌が自分の屋敷に来たところを、風呂場で殺させてしまったのです。
 その時、道灌は「この家も滅びようぞ。」と一言残して、無念の死をとげたといわれます。道灌五十五歳の時でした。
 それ以後、上杉家の同族争いから関東各地は、戦いに明け暮れる戦国時代を迎えます。その乱れの中から勢力をもたげてきたのが北条早雲でした。早雲は、駿河(静岡県)の今川氏に仕えた武将ですが、しだいに勢力をのばして、延徳三年(1491)、伊豆・堀越の足利茶々丸を攻め殺し、その四年後には小田原城を攻め落として、小田原北条氏の基礎をかためました。
 さらに、その子氏綱があとを継いで、大永四年(1524)に江戸城を攻め落とし、翌年には、わが岩付城も攻め落とされてしまったのです。そこで、一たん石戸城(北本市)に逃げのびましたが、その後、城をうばい返して、その子太田資時にゆずることができました。
 ところで、岩付太田氏歴代城主の中で最も有名なのは四代資正です。三楽斎と名のり、当時の日本十三の一人とうたわれた人物です。
 三楽斎は、北条氏に対抗して障害上杉氏に味方し、数々の戦いで勝利をおさめました。特に、天文十五年(1546)八月、三楽斎の岩付軍は、川越夜戦で北条方に奪われた松山城を夜の不意打ちで奪い返しました。
 そこで、北条方は再び攻め落とそうと、松山城を包囲するのですが、そのたびにすぐ岩付の援軍が来て、後から攻められるので北条軍は負けてしまうのでした。
 さて、そのわけは、三楽斎が岩付で飼いならした犬を松山におき、一方、松山の犬を岩付において道を覚えさせ、敵が攻めてきた時、救いをたのむ秘密の手紙を竹筒に入れ、犬の首にくくりつけて、敵の陣中をかけぬけさせて岩付に急を知らせたのです。これを「三楽斎の入替」といいました。
 しかし、さすがの三楽斎も、その後北条方との戦いに敗れて、ついに岩付を追われる身となってしまいます。三楽斎の留守中に、北条方は三楽斎の子資房とはかり、帰ってきた三楽斎を城に入れずに追い払ってしまったのです。
 岩付城を追われた三楽斎は、その後常陸国片野(茨城県八郷町)の城主として迎えられますが、その地で生涯を終えました。
 一方岩付では、資房が五代目を継ぎましたが、北条方から奥方を迎え、北条の「氏」を賜って氏資と名のり、岩付は完全に北条氏の支配下となってしまいました。
 時は流れて、豊臣秀吉の天下統一が着々と進み、秀吉は天正十八年(1590年)二月、二十数万の大軍をもって小田原征伐を開始したのです。
 そのころ岩付城では、六代城主氏房が、北条氏政の次男であったため、三千の軍勢を率いて小田原城におりました。そこで、岩付城には留守部隊二千余りの将兵が守りかためておりました。
 同年五月十九日、豊臣・徳川方合わせて一万三千の大軍が押し寄せてまいりました。敵は三方面から攻めかかり、その中の一部隊が辻村(南辻)の八幡神社の境内に集まり、城に攻め 入ろうとしましたが、梅雨時で元荒川が増水し、人も馬ものみこみそうな勢いで、敵兵は手も足も出ません。すると突然白馬の老人が現れて、荒れくるう川の中に、さっと馬を乗り入れると見る見るうちに激流を乗り越えて城の方へと走り去ったのです。「あそこが浅瀬じゃ、者ども続け!」と、敵はどっと老人が越えた浅瀬伝いに攻めこみました。
 実は、この老人こそ辻八幡のお使いで、敵のようすを知らせに行ったのですが、逆に敵を手引きする結果となってしまったのです。不運というしかありません。
 また、こんな話しも残っております。
 敵の大群は、城下に火を放ち、これに乗じて城を陥れようとしました。この時です。火の中をかけまわる味方の一隊がありました。楯をかざして火を防ぐとともに、敵兵を防いでなかなか城の中へ入れません。縦は炎の中に閃いて、火はただちに喰いとめられました。そして、城は不思議な楯のおかげで焼けないですんだということです。「焔の楯」というお話です。
 激しい戦いが続きました。敵味方ともに多くの侍が殺され、傷つきました。また、女房たちも城と運命を共にする覚悟で立ち働いておりました。特に、奥方の母君はたいへん心の強いお方で「この期に及んでは是非もなし、女なれでも恥ずべきことのないように・・・」と、身ら薙刀を小脇に凛としておおせになりました。
 このお方は、落城後、多くの女房たちと小田原城へ送られましたが、その潔い振舞いに、豊臣秀吉も感心されたということです。
 大軍を相手に味方は奮戦しましたが、城を守り切れず、五月二十日の戦いで、二の丸、三の丸と敵の手に落ちてしまいました。
 そして、最後に残った本丸を守っていた大将伊達与兵衛もとうとう力尽きて、傘をかかげて降参しました。
 太田道灌が城を築いてから百三十年余り、六代続いた太田氏によるわが岩付城は、ついに落城の日をむかえたのであります。
内田 茂「岩槻むかしばなし」より

このホームページに掲載している記事、写真等あらゆる素材の無断複写、転載を禁じます。
Copyright 2011 NPO法人地域文化R&Dプロジェクト