岩 槻 の 伝 説
HOME
槍がえしの門
慈恩寺の七不思議
岩槻城築城の伝説
岩槻城物語(前編)
岩槻城物語(後編)

 岩槻城築城の伝説 (太田・本丸地区)
 
 岩槻城を築城したともいわれる太田道灌(注1)は、城づくりの名人ともいわれています。
 太田道灌は、関東管領扇谷上杉定正に仕え、天文・地勢に詳しく、軍事にも明るいまさに文武を兼ね備えた有能な武将でした。
 あるとき道灌は「東に荒川が流れ、西に奥州に通ずる道があり、南には広大な田畑、そして北は見渡す限りの原野が広がる岩槻に築城すれば必ずや名城とよばれるような城となることは間違いない」と確信し、岩槻城の築城を決意していましたが一つ問題がありました。それは、城を構えようとした場所に沼があり、埋め立てが容易ではなかろうということでした。
 いかにすれば沼を埋め立てて築城できるのか。道灌は思案に暮れる日々を送りました。
 そんなある日、枯れ枝をくわえた一羽の白い鶴がいずこからともなく飛んできました。鶴は枝を沼に落とし、その上に止まって羽を休めたのです。道灌はこれを見て悟りました。
 「岩槻に城を築くには、あの鶴の知恵を借りればよいのだ」
 道灌は数千人の人夫を動員し近くの山林から木や竹を切り出しました。そしてそれらを束ねて数万もの筏をつくり沼に浮かべ、その上に土を乗せました。沼地は平地へと生まれ変わり、新しくできた土地に道灌は堅固な城を築き上げることができたのです。
 こうしてできた岩槻城は、別名白鶴城とも竹束城とも呼ばれるようになったということです。
 
注1 太田道灌…永享四〜文明十八(1432〜1486)。名は資長。道灌は法名。
          江戸城、川越城を築く。扇谷上杉定正に仕え、その勢力伸
          張に貢献した。しかし創刊の知勇を恐れた主君の定正により
          暗殺された。



岩槻市教育委員会発行「岩槻の伝説」より

このホームページに掲載している記事、写真等あらゆる素材の無断複写、転載を禁じます。
Copyright 2011 NPO法人地域文化R&Dプロジェクト